Share

第1話 妻への誕生日プレゼント

Penulis: なつめ
last update Tanggal publikasi: 2026-07-28 11:04:35

 午前五時を告げる目覚ましが鳴るより、ほんの少し早く、美琴は目を覚ました。

 まだ夜の名残を抱いた寝室は薄暗く、厚い遮光カーテンの隙間から、青白い光が一本だけ床へ落ちている。隣では征士郎が規則正しい寝息を立てていた。仰向けに眠る横顔は、若い頃より頬がわずかに緩み、こめかみには白いものが混じっている。それでも、外で見せる柔和で知的な印象は崩れていなかった。

 美琴は掛け布団を押し下げ、音を立てないように身体を起こした。

 膝に手を置き、ひと息待つ。

 立ち上がると、軽い眩暈がした。美琴はベッド脇へ手をつき、治まるのを待った。自分の不調を征士郎へ話したことはない。榊原家には、彼女より先に気にかけるべきものが多すぎた。

 ベッド脇の時計は、四時五十七分を示していた。

 七月二十八日。

 四十歳の誕生日だった。

 美琴は液晶の日付を指先で伏せた。誰も知らないわけではない。ただ、榊原家では口にされないだけだった。

 美琴は寝室を出た。

 冷えた廊下を抜け、階段を下りる。壁の家族写真には、十八歳の美琴が征士郎の隣で笑っていた。何を怖がればよいのかさえ知らない顔だった。

 美琴は目を逸らし、台所の照明をつけた。

 白い光が一斉に降り、磨かれた調理台とステンレスの流しを冷たく照らす。昨夜のうちに研いでおいた米を炊飯器へ入れ、出汁を取るための昆布を鍋から引き上げる。包丁を握ると、身体は考えるより先に動いた。

 喜和子には柔らかく煮た蕪と白身魚。征士郎には塩分を控えた味噌汁と焼き鮭。華帆には脂を避け、肝臓へ負担をかけないよう蒸した鶏ささみと温野菜。

 人参を細く切る音が、静かな家に規則正しく響く。

 とん、とん、とん。

 父が生きていた頃、誕生日の朝には焦げたホットケーキの匂いがした。料理のできない父が、苺で失敗を隠しながら笑っていた。

 包丁の刃が、まな板へ強く当たった。

 美琴は転がった人参を拾い、胸に浮かんだものを息とともに押し戻した。父が亡くなって二十一年になる。

 鍋の蓋がかすかに震え、湯気が立ち上る。昆布と鰹の匂いが、冷えた台所を少しずつ満たしていった。

 五時半を過ぎる頃には、食卓に皿が並び始めた。

 喜和子の席には朝の薬を一錠ずつ分け、飲み間違いを防ぐ札を添えた。

 昨夜吐き気を訴えた華帆には温かな白湯と、銀杏を抜いた茶碗蒸しを用意する。

 最後に征士郎の書斎へ入り、仕事用の資料を革鞄へ納めた。契約書の支払い条件に不備を見つけ、赤い付箋へ修正案を書く。正式な役職はなくとも、こうして数字の穴を塞ぐのはいつも美琴だった。

 鞄の金具を閉めた時、背後で衣擦れがした。

「朝から熱心ね」

 振り返ると、喜和子が廊下に立っていた。

 淡い藤色の寝間着に濃紺の羽織を重ね、銀色の髪をきちんと後ろへ撫でつけている。起きたばかりだというのに、その姿には隙がなかった。

「おはようございます、お義母さま」

「華帆の食事は?」

「茶碗蒸しと温野菜を用意しました。昨夜、吐き気があると聞きましたので、油は使っていません」

「量は少なくしたでしょうね。あの子は食べろと言われれば、無理をして食べてしまうのよ」

「はい。様子を見ながら出します」

 喜和子は返事をせず、書斎の机へ目を向けた。

「征士郎の仕事にまで口を出しているの?」

 美琴の指が、鞄の取っ手から離れた。

「添付資料に不足がありましたので、印をつけただけです」

「そう。あなたは気がつくと、何でも自分がしているような顔になるから気をつけなさい。征士郎が外で働けるのは、本人に力があるからです」

 穏やかな声の端に、冷たい針が縫い込まれていた。

「承知しております」

 美琴が頭を下げると、喜和子は満足したように一度だけ頷いた。

 それから食堂へ向かいかけ、ふと足を止めた。

「今日は何かあったかしら」

 胸が、わずかに持ち上がった。

 美琴は顔を上げる。

 喜和子は壁の時計を見ていた。

「華帆の通院日ではなかったわね」

「……はい。通院は明後日です」

「そう」

 それだけ言って、喜和子は去っていった。

 廊下へ消えていく足音を聞きながら、美琴はしばらく動かなかった。自分の中に浮かんだ期待があまりに幼く、誰かに見られたような恥ずかしさがあった。

 六時半になると、家の中に人の気配が増えた。

 華帆は白いカーディガンを肩へ掛け、征士郎に支えられるように食堂へ入ってきた。淡い栗色の髪は緩く巻かれ、青白い頬には薄く化粧が施されている。

「おはよう、お姉ちゃん」

「おはよう。具合はどう?」

「少しだけだるいけど、大丈夫。昨日よりは楽」

 華帆は笑った。その笑顔は、壊れやすい硝子細工のように見えた。美琴は椅子を引き、背へクッションを当てる。

「無理に食べなくていいのよ。茶碗蒸しだけでも」

「せっかくお姉ちゃんが作ってくれたんだもの。ちゃんと食べる」

 言いながら、華帆は征士郎を見上げた。

 征士郎はその肩へ手を置き、「無理はするな」と低く言った。声の温度が、仕事へ出る前の彼とは違っていた。美琴へ向けられる声より、わずかに柔らかい。

 その違いに気づくたび、美琴は病気の妹を気遣っているだけだと自分へ言い聞かせてきた。二十年以上連れ添った夫を疑うことは、その年月すべてを疑うことに似ていた。

 征士郎が席につき、新聞を開く。

「美琴、珈琲を」

「はい」

 湯気の立つカップを置くと、彼は礼も言わずに口をつけた。いつもの朝だった。

 喜和子は蕪の煮物を一口食べ、箸を止めた。

「少し味が薄いわ」

「申し訳ありません」

「華帆に合わせすぎて、家族全員を病人食にする必要はないでしょう」

「次から気をつけます」

 華帆が困ったように眉を下げる。

「私のせいでごめんね、お姉ちゃん」

「華帆のせいではないわ」

「でも、お義母さまの言う通りだよ。私だけ別にしてくれたらいいのに」

「別に作っているのよ。これはお義母さまのお身体を考えて、少し塩分を――」

「言い訳はいいの」

 喜和子の箸が器の縁へ当たり、乾いた音を立てた。

 美琴は口を閉じた。

 征士郎は新聞から顔を上げなかった。けれど、数秒後、不意に紙面を畳んだ。

「今夜は早く帰る」

 美琴は瞬きをした。

「今夜、ですか」

「ああ。七時には戻る」

 彼は腕時計を確かめながら、何でもないことのように言った。

 美琴の胸の奥で、朝から押し殺していたものが、小さく灯った。

 征士郎が帰宅時間を告げるのは珍しい。結婚記念日でさえ、日付が変わってから戻ることが何度もあった。

 もしかすると、四十歳という節目を覚えているのかもしれない。

「夕食は、何かご希望がありますか」

「君に任せる」

 征士郎はそう答え、鞄を持って立ち上がった。

 玄関で、征士郎は珍しく美琴を振り返った。

「夜、話がある」

 低く落ち着いた声だった。

 美琴は知らず、背筋を伸ばした。

「はい。お待ちしております」

 征士郎はそれ以上何も言わず、玄関を出た。

 黒い車が門の向こうへ消えるまで、美琴はその場に立っていた。冷房の届かない玄関には、朝の湿気が入り込み、首筋へ細かな汗がにじんだ。

「お姉ちゃん」

 背後から呼ばれ、振り返る。

 華帆が階段の下に立っていた。白い指で手すりを握り、どこか不安そうに美琴を見ている。

「今夜、お義兄さんと話すの?」

「そうみたいね」

「何の話だろう」

「さあ。仕事のことかもしれないわ」

 美琴が笑うと、華帆は唇をわずかに開いた。何か言いかけ、それを飲み込むように目を伏せる。

「どうしたの?」

「ううん。何でもない」

 カーディガンの袖口から覗く手が、胸元を押さえた。

「少し休むね」

「部屋まで付き添うわ」

「大丈夫。お姉ちゃんは忙しいでしょう」

 華帆はそう言い、ゆっくり階段を上がっていった。

 昼までに家事を終え、美琴は買い物へ出た。

 夕食には、征士郎の好物である牛肉の赤ワイン煮を選んだ。結婚して最初の誕生日に連れて行かれた洋食店で食べた料理だ。

 花屋では白い薔薇へ淡い桃色を三本混ぜ、小さな花束にした。誰かから贈られなくても、花があれば少しは特別な夜に見える気がした。

 帰宅した美琴は、音を立てずに料理を始めた。

 肉を焼き、赤ワインを注ぐ。玉葱の甘い匂いと、深い色の湯気が台所に満ちた。

 食器棚の奥から、父が結婚祝いに揃えてくれた金縁の皿を出す。布で磨きながら、美琴は自分が浮き立っていることに気づいた。

 四十歳にもなって、夫が誕生日を覚えているかもしれないというだけで。

 それでも今夜、彼が何か一つ覚えていてくれたなら、自分の二十二年も無意味ではなかったと思える気がした。

 午後六時を過ぎると空が暗くなり、窓硝子へ雨が当たり始めた。

 美琴は食卓へ花を置き、蝋燭を二本だけ立てた。華帆の身体を考え、香りの強いものは避けてある。

 七時十分前、門の外に車の音がした。

 美琴の指先が止まる。

 胸が、若い頃のように早く打った。

「お帰りなさいませ」

 玄関の扉を開けると、征士郎が濡れた傘を運転手へ渡していた。濃紺のスーツには雨粒が光り、片手には艶のある濃緑色の箱を持っている。

 金色の文字が押された、高級ブランドの箱だった。

 征士郎は彼女の視線に気づき、ほんの少し口元を和らげた。

「待たせたな」

「いえ……お帰りが早くて、驚きました」

「約束しただろう」

 その言葉が、胸へ静かに落ちた。

 美琴は箱から目を離し、征士郎の上着を受け取った。雨と革と、彼の香水の匂いがした。

「夕食をご用意しています」

「先に話をしよう。母さんと華帆も呼んである」

 美琴の笑みが、わずかに止まった。

「皆で、ですか」

「ああ。家族にとって大切な話だ」

 征士郎は濃緑色の箱を持ったまま、食堂へ入った。

 すでに喜和子が上座に座り、華帆も隣にいた。二人とも着替えを済ませている。華帆は淡い水色のワンピースを着て、膝の上で指を組んでいた。

 美琴の用意した料理には、まだ誰も手をつけていない。

 征士郎は美琴の正面へ座り、箱を卓上へ置いた。

 金色の文字が、蝋燭の炎を反射する。

「美琴」

 名を呼ばれただけで、胸が熱くなった。

 彼は覚えている。

 やはり、今夜はそのために帰ってきたのだ。

 美琴は椅子へ腰を下ろし、膝の上でそっと手を重ねた。指先がかすかに震えていることを悟られたくなかった。

「開けなさい」

 征士郎が箱を押し出した。

 美琴は両手で受け取った。

 見た目より重かった。

 細い金色の紐を解く。

 蓋を持ち上げた瞬間、紙の匂いがした。

 中に入っていたのは、同じブランドの品ではなかった。

 白い封筒。

 大学病院の名が印刷されている。

 その下に、厚い説明書と複数の書類が重ねられていた。

 美琴は動きを止めた。

「……これは」

 声が、自分のものではないように遠かった。

 封筒を開く。

 最初に現れたのは、生体肝移植に関する説明書だった。合併症、術後の回復、死亡の可能性。紙をめくる指が冷たくなる。

 次は臓器提供同意書。

 提供者氏名の欄には、すでに「榊原美琴」と印字されていた。

「華帆の病状が悪化した」

 征士郎の声が、静かに響いた。

「今の治療では、長く持たない。医師から、生体肝移植が最も現実的だと説明を受けた」

 美琴は華帆を見た。

 華帆は青ざめた顔で俯いている。睫毛の先に涙が溜まり、膝の上で組んだ手が震えていた。

「移植……」

「適合する可能性の高い提供者が必要だ。血縁者で、健康状態に問題がなく、体格も近い者」

 征士郎はそこで一度言葉を切った。

「君が候補になった」

 雨脚が強くなった。

 窓を叩く音が、食堂の沈黙を細かく割っていく。

 美琴は書類を見下ろしたまま、ゆっくり息を吸った。

「私は、検査を受けていません」

「会社の健康診断で採血しただろう」

「それは、通常の健康診断です」

「同じ血液だ」

 あまりに平然とした答えだった。

 美琴は顔を上げた。

「私の許可なく、検体を使ったのですか」

「家族の命がかかっている。可能性を調べることに、いちいち大げさな同意が必要だとは思わなかった」

「大げさ……」

「美琴」

 征士郎は諭すように名を呼んだ。

「まだ手術を決めたわけではない。説明を受け、同意すれば正式な検査へ進む。ただ、医師の見立てでは、君が最も適している」

 美琴の耳の奥で、自分の鼓動が響いていた。

 そう言いながら、書類にはすでに日付が記されていた。

 療養計画書の上部。

 手術予定日、八月十一日。

 今日から、ちょうど二週間後だった。

「どうして……手術日が決まっているのですか」

 征士郎の眉が、わずかに動いた。

「病院側の都合だ。手術室と担当医を押さえる必要がある」

「私は今日、初めて聞きました」

「だから今、説明している」

 喜和子が小さく息を吐いた。

「美琴。言葉尻を捉えるのはおやめなさい。華帆はずっと苦しんでいるのよ」

「お義母さま、私は――」

「あなたは健康でしょう」

 喜和子の声は穏やかだった。

「少し肝臓を分けても、時間が経てば元へ戻ると聞いています。若い華帆には、これから先の人生があるのよ」

 華帆は椅子から立ち上がり、美琴の隣へ回った。甘い香水の匂いが近づく。

「お姉ちゃん」

 細い声だった。

 華帆は美琴の手を両手で包んだ。冷たい指が、縋るように絡む。

「私、お姉ちゃんを傷つけてまで生きたくない」

 涙が一粒、頬を伝った。

「手術なんて怖いし、お姉ちゃんに何かあったら、私……生きていけない」

 そう言いながら、華帆は卓上の万年筆を取り、同意書の署名欄へ置いた。

 黒い軸が白い紙の上で転がり、美琴の右手に最も近い位置で止まった。

「署名は今夜でなくてもいい」

 征士郎が言った。

「ただ、病院へは明日の朝までに返事をする必要がある」

 二週間後に手術日が決まり、翌朝までに返事を求められる。

 それは選択なのだろうか。

 美琴は書類を一枚ずつめくった。

 手術承諾書。

 輸血同意書。

 術後の療養に関する確認書。

 そして、その下に重ねられた別の書類。

 題名を見た瞬間、指先から血の気が引いた。

 財産管理委任契約書。

 術後、美琴の判断能力が一時的または継続的に低下した場合、預貯金、有価証券、株式、議決権、不動産その他一切の財産管理を、夫である榊原征士郎へ委任する。

 委任期間は、受任者が必要と判断するまで。

 美琴は黙ったまま、その文章を二度読んだ。

「これは、移植の同意書ではありません」

 声が震えないように、ゆっくり言った。

「術後の管理に必要な書類だ」

「私の口座も、株式も、議決権も、すべてあなたが管理する内容です」

「大きな手術の後は、君もすぐには動けない。会社のことまで気にして療養を怠られては困る」

「期間が書かれていません」

「回復には個人差がある」

「あなたが必要だと判断するまで、と書かれています」

 征士郎の表情は変わらなかったが、食卓の空気は冷えた。

 先ほどまで灯っていた蝋燭の炎が、窓の隙間から入った風に揺れる。壁に落ちた四人の影が、歪んで重なった。

 美琴は万年筆を手に取った。

 華帆の呼吸が止まる。

 喜和子の肩から、わずかに力が抜ける。

 征士郎は口元へ静かな笑みを戻した。

「そうだ。それでいい」

 美琴はペン先を署名欄へ近づけた。

 黒いインクが、白い紙へ小さな点を落とす。

 二十二年間、美琴は父の会社を守るために結婚し、榊原家へ尽くしてきた。自分が我慢すれば家族が穏やかでいられると思っていた。

 けれど今、差し出すよう求められているのは、自分の身体だった。そのうえ、切り取られた後の財産と権利まで、同じ紙の束に並べられている。

 美琴は、ゆっくりペンを置いた。

 硬い音が、食堂に響いた。

「これは、誕生日プレゼントではありません」

 征士郎の笑顔が消えた。

 ほんの一瞬だった。

 いつも穏やかで、誰に対しても理性的な夫の顔から、温度だけが抜け落ちた。

 美琴は初めて見るその目を、逸らさずに見返した。

 征士郎は椅子の背へ身体を預け、組んでいた指をほどいた。

 雨音の向こうで、時計の針が一つ進む。

「美琴」

 低い声が、冷えた食卓へ落ちた。

「家族を見殺しにするつもりか」

Lanjutkan membaca buku ini secara gratis
Pindai kode untuk mengunduh Aplikasi

Bab terbaru

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第41話 株主総会への招待状

    榊原医療開発の定時株主総会まで、残り十二日だった。例年なら、美琴はこの時期になると征士郎が自宅へ持ち帰る総会資料の数字を見直し、前年との増減を確認し、取引先から届く祝い花の扱いまで気にかけていた。それでも会議場に自分の席が用意されたことは一度もなく、当日は控室と廊下を往復しながら、必要な資料を役員へ渡すだけだった。今年、美琴の前に置かれているのは、配布用資料ではなく榊原医療開発の最新の株主名簿だった。久世の事務所の長机に広げられた名簿を追っていた美琴は、途中で指を止めた。そこには見慣れたはずなのに、いまだ自分の会社だという実感を持てない名前があった。〈ミコト・アセットマネジメント株式会社〉。保有比率は経営権を左右するほどではないが、株主として総会へ出席し、保有株式に応じて議決権を行使できるだけの株数が記載されていた。「いつ取得した株ですか」久世は取得履歴を開き、設立直後の三年前から複数回に分けて買い増していると説明した。市場を経由した取得だけではなく、榊原家と関係の深い株主から譲渡された分もあり、資金の一部には美琴名義の旧口座から移された金が使われた疑いがある。会社の存在を知らなかった頃、美琴の名前で作られた法人は夫の会社の株まで保有し、書類上の美琴は知らないうちに株主へなっていた。「しかも、株主名簿上の名義人は法人です。登記上、その法人を代表できる人物は現在も美琴さんになっています」久世の言葉に、美琴は名簿の社名と自分の名前を交互に見た。ミコト・アセットでは、融資も保証も投資も自分が決めたことにされてきた。その肩書を欲しいと思ったことは一度もないが、征士郎が自分の名義を利用するために作った代表権なら、その権利だけを都合よく封じられることにも納得できなかった。すでに征士郎側からは、株主総会への出席を認めないという趣旨の通知が届いていた。ミコト・アセットの代表取締役登記には重大な争いがあり、会社経営へ実際に関与してこなかった美琴が突然株主権を行使すれば混乱を招くため、総会当日に受付へ現れても資格を認めない可能性があると書かれている。法廷では美琴を関連会社の実質的経営者として扱い、債務まで負わせようとしていた征士郎側が、株主として権利を使おうとした瞬間には「経営へ関与していない」と主張している。その文章を最後まで読んだ美琴は、怒りよりも先に、また同じやり方

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第40話 二十二年分の給料

    美琴が最初に作ったのは、報酬額の表ではなかった。久世の事務所の長机いっぱいに、自分が実際にしてきた仕事を年代順へ並べることから始めた。資金繰り、銀行との返済調整、取引先への支払い交渉、社員給与の計算補助、役員会資料の作成、取引先の冠婚葬祭への出席。これまで「妻だからして当然」と思ってきたことを一つずつ仕事として書き出すたび、二十二年間の輪郭が別の形で見えてきた。「家事と会社業務は分けましょう」久世は、美琴が書いた一覧の中央へ線を引いた。榊原家の食事を作ることや喜和子の通院へ付き添ったことまで会社への請求へ含めるつもりはない。だが、取引先の葬儀へ征士郎の代理として参列し、会社名義の香典額を判断したことや、銀行担当者との面談資料を作成したことは、家庭内の手伝いではないと彼は明確に区別した。美琴は古い手帳を開き、予定欄を一つずつ確認した。月末の欄には決まって銀行名と数字が書き込まれている。午前十時、中央銀行支店。午後二時、東都医療機器。午後四時、社員給与確認。夜には榊原邸へ戻り、喜和子の夕食を作ったあと、征士郎が持ち帰った資料を見ながら翌月の支払い順位を決めていた。あの頃の自分には、どこからどこまでが仕事なのか考える余裕すらなかった。「メールも残っています」美琴が出した古い外付け記録媒体には、会社の共有アドレスから転送された連絡が大量に残っていた。征士郎の秘書から送られてきた請求一覧、経理担当者からの確認依頼、取引先から直接届いた支払い相談。宛名には〈榊原専務奥様〉と書かれているものも多いが、内容は明らかに会社の資金判断を求めるものだった。久世はその一通を開き、画面へ表示した。十四年前、資金不足が深刻だった月のメールだった。経理課長が、社員給与と医療機器会社への支払いのどちらを優先すべきか美琴へ尋ねている。美琴は給与を予定通り支給し、医療機器会社へ自分から三日の延期を頼むと返信していた。その三日後、取引先から〈奥様のお約束どおり入金を確認しました〉という返事が届いている。「専務ではなく、私へ聞いている」「このメールだけではありません」久世が検索条件を変えると、似た連絡が何十件も出た。融資の返済日を一週間動かせないか、仕入先の一社へ先に払うべきか、給与計算に不足がないか。正式な役職も社内メールアドレスもない美琴へ、会社の人間が直接判断を求めている。しかも

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第39話 離婚できない妻

    離婚訴訟の期日は、これまでより傍聴人の数が多かった。美琴が成年後見を必要としないと判断されて以降、榊原家と九条家の対立は金融機関や取引先にも知られるようになり、法廷の後方には報道関係者らしい姿も混じっている。美琴は久世の隣へ座り、机の上に置かれた書面を一枚ずつ確かめた。三十八件の保証契約、ミコト・アセットの議事録、銀行の入退館記録、筆跡鑑定書。向かい側には征士郎がいた。濃紺のスーツに白いシャツを合わせ、表情には焦りを見せていない。裁判所の外では妻を心配する夫として振る舞い、法廷では会社を守る経営者として座る。その切り替えを二十二年間見てきた美琴には、口元のわずかな硬さだけが、今日の主張に相当な準備をしてきたことを教えていた。征士郎側の代理人は、開廷後まもなく提出書面の説明へ入った。美琴は榊原家から一方的に財産を奪われた者ではなく、長年にわたり榊原医療開発と関連会社の資金調達へ関与し、個人保証、関連会社の代表、病院法人への投資判断を通じて事業拡大へ参加してきたという。ミコト・アセットでは代表取締役として貸付や不動産取得を承認し、複数の金融機関はその経営関与を前提に融資を実行した。したがって、婚姻期間中に形成された利益だけを美琴が受け取り、事業債務だけを征士郎側へ残すことは許されないという論理だった。「相手方は、自身に都合のよい資産のみを固有財産であると主張し、事業上の債務についてはすべて偽造であるとして負担を免れようとしています」代理人の声は整っていた。美琴は黙って聞いた。次に示されたのは桐生承継信託第一号だった。征士郎側は、その受益権についても、美琴が長年榊原家の事業へ自ら信用を供与してきた以上、債務整理と切り離して扱うべきではないと主張した。さらに、美琴が離婚後に桐生姓へ戻る意向を周囲へ示していることまで、債務との関係を断ち切ろうとする姿勢の表れであるかのように語った。美琴はそこで初めて征士郎を見た。二十二年間、会社の契約や役員会について質問すれば「君は家庭を見ていればいい」と言い、帳簿の数字へ意見を出せば「正式な役員ではない」と退けた男だった。その同じ人間が、今は美琴を事業の拡大へ積極的に関わった共同経営者として扱っている。久世は反論のために立ち上がった。まず、ミコト・アセットで美琴が出席したとされる株主総会と取締役会について、会議室そのものが存在

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第38話 夫が作ったもう一人の妻

    久世が机の上へ並べた資料は、契約の種類ごとではなく、「榊原美琴」という名前がどのように使われたかで分けられていた。銀行関係、保証契約、ミコト・アセット、医療記録、保険、委任状。昨日まで別々の問題として追っていた書類が、六つの束へ組み替えられている。美琴は椅子へ座る前にそれらを眺め、どの束にも自分の署名と実印の痕跡があることを確かめた。自分の人生が紙へ解体され、用途ごとに分類されているようだった。「今まで、偽造された書類を一件ずつ追ってきました」久世は壁面モニターへ資料を映した。最初に示されたのは、美琴の実際の経歴だった。十八歳で征士郎と結婚し、榊原家へ入り、正式な役職も給与もないまま経理、資金繰り、取引先との調整を担ったこと。家では喜和子の世話をし、会社では表に名前が出ない仕事を引き受け、必要な時だけ「専務夫人」として頭を下げてきたことが年代順に記されている。「こちらが、現実のあなたです」美琴は画面を見つめた。そこにある事実はどれも知っている。それでも、第三者の手で簡潔に並べられると、二十二年間の自分が驚くほど権限を持たない人間だったことが分かった。会社の資金が尽きそうな時には数字を計算したのに、融資を決める権限はない。取引先へ支払い延期を頼んだのに、役員会へ正式に呼ばれることはない。毎月の帳簿を把握していても、報酬は一度も支払われなかった。久世は画面を切り替えた。今度は、まるで別人の履歴だった。巨額の個人保証を繰り返し、金融機関から信用を得る資産家。関連会社の代表取締役として病院法人への投資や不動産取得を決裁し、榊原医療開発への融資を承認する経営者。生命保険へ自ら加入し、受取人と保険金額を調整する資産管理者。さらに夫へ口座、株式、議決権、財産管理を任せる委任状へ署名し続けた妻として記録されている。「そして、直近になると別の要素が加わります」久世が一枚の医療関係資料を拡大した。そこには、強い不安、判断の揺らぎ、配偶者による補助が必要という趣旨の記述が並んでいた。美琴が会ったことのない医師との面談記録や、薬の影響が疑われる時期の書類も含まれている。成年後見を求めた征士郎側の主張と重ねれば、書類上の美琴は最近になって急速に、精神疾患を抱え、自分では重要な判断をできない患者へ変化していた。「矛盾していませんか」美琴は画面を見たまま尋ねた。「何十億円も

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第37話 存在しない取締役会

    ミコト・アセットマネジメントの議事録は、見た目だけなら申し分のない会社の記録だった。製本された冊子には年度ごとの株主総会と取締役会が整然と並び、開催日時、出席者、審議事項、決議内容まで欠けることなく記されている。美琴は久世の事務所の長机に座り、その一冊目を開いたまま、しばらく最初のページから視線を動かせなかった。代表取締役として記載されているのは自分の名前だった。議長として開会を宣言し、貸付案件を説明し、出席者へ意見を求め、最後にはすべての議案を承認したことになっている。「これ、全部で何回あるんですか」久世は手元の一覧へ目を落とした。「確認できた範囲で、株主総会が九回、取締役会が三十七回です。書面決議扱いのものを含めれば、さらに増えます」と答えた。美琴は思わずページの角を押さえる指へ力を込めた。三年前に設立された会社であるにもかかわらず、月によっては二度も取締役会が開かれている。自分は会社の存在さえ知らなかったのに、紙の上の榊原美琴は、現実の美琴よりはるかに頻繁に経営判断をしていた。議事録の内容は軽いものではなかった。榊原医療開発への一億円単位の貸付、病院法人への出資、医療機器会社の債務保証、地方都市の土地購入、関連会社株式の取得。中には、前日に資金不足が判明した榊原医療開発へ緊急融資を行う議案もあり、議事録上では美琴自身が「取引関係維持のため必要」と説明したことになっている。別の会議では、病院法人への投資について「将来の医療事業拡大に資する」と発言したと記録されていた。美琴はその文章を読み、奇妙な息苦しさを覚えた。自分なら使いそうな言い回しではない。けれど外部の人間には、そんなことは分からない。そこに署名と実印があり、議事録として整えられていれば、代表取締役本人が話した言葉として扱われる。「この議事録は、会社の中に置かれていただけではないんですね」「ええ」久世は別のファイルを開いた。銀行、リース会社、病院法人から取り寄せた審査資料の中に、ミコト・アセットの議事録写しが添付されている。融資審査では、美琴が取締役会を主導し、自ら投資案件を説明した人物として扱われていた。金融機関側のメモには〈代表者の事業理解は深い〉〈榊原医療開発との関係も本人が説明〉という記載まである。「会ってもいないのに、私の事業理解が深いことになっているんですか」「担当者が美琴

  • 夫と妹に臓器まで奪われかけた私は、死んだはずの極道御曹司に拾われました   第36話 妹が書いた私の名前

    筆跡鑑定人が持参した資料は、前に見たものより薄かった。それなのに、美琴は表紙へ触れるまでに少し時間がかかった。九条家の応接室には午前の光が斜めに差し込み、長机の上には華帆が過去三年間に残した手書き資料の複写が並んでいる。白い花の誕生日カード、買い物を頼まれた時の走り書き、病院へ提出した申請書、美琴宛ての短い手紙。どれも当時は疑う理由すらなかった物ばかりで、今は一文字ずつ線の癖を見られるために透明な袋へ収められていた。「結論から申し上げれば、同一筆者と断定する段階ではありません」鑑定人は最初にそう告げた。美琴は胸の奥で固くなっていたものが僅かに緩むのを感じたが、安心したわけではなかった。鑑定人はすぐに、直近三年間の移植関係書類にある偽造署名と華帆の自然筆跡には、複数の共通特徴が見つかったと続けた。文字の形そのものではなく、筆圧の入れ方、曲線から払いへ移る時の小さな止まり、縦線を書き始める際に紙へ強くペン先を置く癖が似ているという。透明なシートを重ねると、全く違う言葉の中にも同じ動きが浮かび上がった。華帆が書いた〈お姉ちゃんへ〉の「姉」の縦線と、移植同意書にある〈榊原美琴〉の「琴」の縦画には、始点だけ強く紙を押し、その直後に力を抜く癖がある。さらに、長い横線の終わりを僅かに上向きへ返す動きも共通していた。鑑定人はあくまで可能性の話として説明し、類似だけで本人と決めつけることはできないと何度も念を押した。「比較資料を増やせば、もう少し精度は上がりますか」美琴が尋ねると、鑑定人は頷いた。「年代の分かるものが多いほど助かります。特に、急いで書いたものと丁寧に書いたものの両方があるといいでしょう」と答える。その声は淡々としていたが、美琴にはありがたかった。ここで華帆が書いたと断定されれば、怒りの向け先は簡単になる。けれど簡単な答えほど、今の美琴は警戒するようになっていた。久世が病院関係の申請書を一枚取り上げた。「華帆さん本人が提出した入院費助成の申請です。日付も本人提出も確認できています」と言い、別の買い物メモと並べた。美琴はその二枚を見ながら、華帆が榊原邸へ来た最初の頃を思い出した。文字を書く姿を何度も見ていたはずなのに、どんな持ち方をしていたかまでは覚えていない。姉を慕うように隣へ座り、「お姉ちゃんの字って綺麗」と家計簿を覗き込んでいたことだけが、妙にはっきり

Bab Lainnya
Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status